年譜

ルイザ・メイ・オルコット
     1799年11月29日 父エイモス・ブロンソン・オルコットが、アメリカのコネティカット州
     ウォルコット近くにあるスピンドル・ヒルの丘で農家の長男として生まれる。 
     哲学者、教育思想家、教師、作家、改革論者、超絶主義者、菜食主義者となる。
     は教師の仕事を、自分の"天職"だと考えていた。指導方法が進歩的だったので理解されにくかったが、
     近代の教育では、彼の学習に関する理論がいくつも実現化している。
     理想主義者だったので、オルコット一家の生活は貧しかった。

     1800年10月8日 母アビゲイル・メイ(愛称アッバ)が、由緒正しい名家であるジョセフ・メイ大佐夫妻の
     七人きょうだいの末っ子として、マサチューセッツ州ボストンのキングズ・チャペル教区で生まれる。
     は苦難に屈しない勇気と、どんな時にも希望を失わない、明るい性格の持ち主だった。
     メイ家はボストンでは慈善事業で広く知られており、熱心な奴隷制廃止論者だったので、も熱心な社会改革者となる。

     1803年5月25日 ラルフ・ウォルドー・エマソンが生まれる(〜1882年4月27日)。
     講演者、詩人、エッセイストとして活躍し、思想家、アメリカ最初の哲学者として名声を得る。
     オルコット一家の友人となり、支援や助言をしていた。『若草物語』のローレンス氏のモデルとなる。

     1804年7月4日 作家ナサニエル・ホーソンが、マサチューセッツ州セーラムで生まれる(〜1864年5月19日)。

     1817年7月12日 ヘンリー・デイヴィッド・ソローがマサチューセッツ州ミドルセックス郡コンコード郊外の
     ヴァージニア通りの家で誕生(〜1862年5月6日)。『森の生活』「先住者」の中での事を“最後の哲学者の一人”と書く。
     ソローは毎週、オルコットやエマソンやホーソンの子供達を、森や丘でインディアンの遺物とか植物や動物の
     標本を集める時に連れて行ったり、舟遊びに誘ったりした。
     ルイザは、彼に憧れと尊敬の念を抱いていた。

     1818年 、コネティカット州の産物を行商する旅に出る。その間に、クェーカー教徒と知り合い、
     彼らの生活習慣や考え方から大きな影響を受ける。

     1824年 、コネティカット州チェシャー町で、自分自身の学校を開校する(〜1827年6月)。

     1827年6月 、同州のブルックリンに住むサミュエル・J・メイ牧師を訪問し、牧師の妹だったに初めて出会う。

     1828年 の紹介でボストンの幼児学校の教師となる。
     はエマソンと知り合いになり、生涯を通じた友となる

     1830年5月23日 父エイモス・B・オルコットアッバ・メイが、ボストンのキングズ・チャペルで結婚。
     父母は、四人姉妹に日記を付ける事や手紙を書く事を奨励したり、独立の精神を植えつけた。
     12月 はクウェイカー教徒達から教師として招かれ、と共にペンシルベニア州ジャーマンタウンに
     引っ越してパイン・プレイスに住み、ジャーマンタウン・アカデミーの下級学校を開く。

     1831年3月16日 長女アンナ・ブロンソンが、パイン・プレイスで生まれる。の穏やかな性質を受け継いで、
     おとなしくて優しかった。  
     10月 学校の出資者の一人だったリュウベン・ヘインズが死去。その後、学校は次第に生徒が減るようになる。

     1832年11月29日 次女ルイザ・メイ・オルコットが、パイン・プレイスで生まれる。
     元気溌剌で冒険心に溢れていた。「こしょうのメイ家」と言われた母方の性質を受け継いで、短気で怒りっぽかった。
     後に社会改革運動、奴隷解放運動、婦人参政権運動、禁酒運動、慈善事業などに参加している。

     1833年(1歳)3月 フィラデルフィアに引っ越す。

     1834年(2歳)夏 学校に生徒がいなくなったためにほとんど無一文になり、ボストンへ戻る。
     9月22日 、エリザベス・パーマー・ピーボディの援助により、ボストンのマソニック寺院(テンプル)
     の部屋を使ってテンプル・スクールを開校し(〜1839年)、エリザベス・ピーボディがの助手となる。

     1835年(3歳)6月24日 三女エリザベス・スーウェル(愛称リズィ、ベス)が、ボストンのフロント・
     ストリート26番地で生まれる。エリザベス・ピーボディから名前を貰った。の穏やかな性質を受け継いで、
     おとなしくて優しかった。
     エマソン、コンコードのレキシントン通りにある家を購入して引っ越す。

     1836年(4歳) 、エマソンが結成した超絶主義者の会「超絶クラブ」の会員となる。 
     は『福音に関して子供たちとの会話』を出版するが、危険思想を育む過激な本というレッテルを貼られてしまい、
     生徒は次第に減っていって、学校はもっと小さな所へ移転される。

     1839年(7歳) が黒人の生徒を入学させたために、出資者が去ってテンプル・スクールが閉校となり、
     莫大な借金が残る。

     1840年(8歳)春 エマソンに勧められてコンコードに引っ越し、サウス・ブリッジ近くにあるホズマー・コッテージを
     借りて住む(〜1843年)。後に、『若草物語』でメグの新婚の家として描かれ、「鳩の家」として広く知られるようになる。
     アンナルイザソロー兄弟が開いている学校、コンコード・アカデミーの生徒となる(〜1841年)。
     は菜園を作ったり、日雇い仕事をするが、家は貧しかった。
     姉妹、エマソンの子供達と遊ぶ。
     7月 が名前を付けた超絶主義者たちの機関誌≪ダイアル≫(The Dial)が創刊され、も投稿する。
     7月26日 四女アビゲイル・メイ(愛称アビイ、メイ)が、ホズマー・コッテージで生まれる。から名前を
     貰っている。絵の才能があり、姉妹の中で一番社交的だった。後に、コンコードとボストンで絵を教え、
     外国で絵を勉強する人のための本を出版した。

     1841年(9歳)初春 初めての詩「一番乗りのこまどりさん」(To The First Robin)を書く。

     1842年(10歳) ホーソン、妻ソフィア(旧姓ピーボディ)と共にコンコードに引っ越し、エマソンの祖父母
     が住んでいたオールド・マンスで暮らす(〜1845年)。
     姉妹はホーソンやエマソンの子供達と、愛読している物語を劇にして、毎日納屋で芝居をして遊ぶ。
     5月 、イギリスの改革論者のグループに招待されて、イギリスに渡る(〜10月)。
     、イギリスの学校を訪問したり、イギリスの超絶主義者達と会見したり、マサチューセッツの中心に、
     「ニュー・エデン(新しき楽園)」を建設して共同生活をする計画をたてる。
     10月 、実験的な共同生活を始めるために、イギリスで知り合ったチャールズ・レインと彼の二人の息子、
     ヘンリー・ライトと共に帰国する。

     1843年(11歳)6月1日 マサチューセッツ州ハーバード近くの農場「フルートランズ(果物の土地)」で
     超絶主義思想に基づいた実験的共同生活を始め、自給自足の暮らしをし、姉妹は家庭教師に勉強を教わる(〜12月)。
     この頃から本格的に日記をつけ始める。
     晩秋 フルートランズでの実験的共同生活が、失敗に終わった事が分かる。

     1844年(12歳)1月 マサチューセッツ州スティル・リバーに引っ越す。
     姉妹、チェイス先生の学校へ通う。
     4月 スティル・リバーのブリック・エンズ(煉瓦の家)に引っ越す。
     姉妹、芝居やコンテストをする。
      コンコードに戻り、エドマンド・ホズマーの家に寄寓する。

     1845年(13歳) アンナルイザ、ジョン・ホズマーの学校に通う(〜1846年冬)。
     を書き始める。
     4月1日 コンコードのレキシントン通りの農家「ヒルサイド」に引っ越す(〜1848年)。家は古かったので、が改築した。
     7月4日 ソローがウォールデンに入居し、自給自足の一人暮らしを始める(〜1847年9月6日)。

     1846年(14歳)3月 ルイザは「自分の人生の計画」を立て、「父には安定した生活を、母には平和と日当りのいい
     部屋を、姉のアンナには幸福を、病身のベスには看護を、そしてメイには教育を」自分の力で必ず与えようと誓う。

     1847年(15歳) エマソンから『ゲーテとある子供との往復書簡』を借りて読み、その真似をしようと
     エマソンをゲーテに仕立てる。

     1848年(16歳) 姉妹を書き、衣裳をつけて納屋で上演する。
     7歳年下のエレン・エマソンに読んで聞かせるおとぎ話を書く。
     がコンコードで教師の職を見つけられなかった事と、がボストンで貧民救済使節として
     働かないかと誘われたために、再びボストンに引っ越し、デッダム通りの小さな家に住む。
     は哲学的な座談会を開く。
     は貧民救済使節の仕事により、アメリカで初めてのソーシャル・ワーカー(民生委員)になる。
     ルイザアンナは納屋で学校を開き、ベスメイはその学校で学ぶ。
     原稿を雑誌社へ持ち込み、時折掲載される。匿名でゴシック風スリラー小説を書く。

     1849年(17歳) 家庭新聞≪オリーブの葉≫を発行する。
     ルイザの書いたが、姉妹によって上演される。

     1850年(18歳) ボストンに働きに出かける。仕立物、書き物、教師などをして働く。

     1851年(19歳) ボストンに働きに出かける。 
     処女詩が≪ピーターソンズ・マガジン≫に掲載される。これは、初めて印刷された作品だった。

     1852年(20歳) 物語が初めて一冊の本となる。
     ボストンのピンクニー通り20番地に住む。この家で、ルイザアンナは学校を開く。
     ホーソン、オルコット一家が住んでいたヒルサイドを購入し、ウェイサイドと名前を変えて住む(〜1870年)。

     1853年(21歳) 教師として働く。
     ホーソン、アメリカ領事としてヨーロッパで暮らす(〜1860年)。

     1855年(23歳)7月 ニューハンプシャー州ウォルポール村に引っ越す(〜1857年)。
     ルイザアンナは村のアマチュア劇団に参加し、劇「ジャコバイト」や「ニ人のボニーキャッスル」に出演する。
     ボストンに働きに出かける。以後、家族と暮らす時期と、ボストンで働く時期を交互に繰り返すようになる。

     1856年(24歳)6月 ベスメイが猩紅熱にかかる。メイは順調に回復したが、ベスは体が次第に弱っていく。

     1857年(25歳)10月 オルコット一家、コンコードに戻る。

     1858年(26歳)3月14日 ベスが死去、享年22歳。コンコードのスリーピイ・ホロウ墓地に埋葬される。
     アンナとジョン・ブリッジ・プラットが婚約する。
     7月 オルコット一家、コンコードのレキシントン通りにあるオーチャード・ハウスに引っ越す。
     この家は、以前、住んでいたヒルサイドの隣にあり、この家も古かったので、父が改築した。
     姉妹、毎月曜日の夜に家を開放して、劇を上演するようになる。

     1859年(27歳) 、コンコードの学校教育長に任命される。
     ボストンで仕立物、書き物、教師などをして働く。

     1860年(28歳) 「愛と自己愛」が≪アトランティック・マンスリー≫誌に掲載される。
     笑劇「ナット・バチェラーの愉快な旅」がボストンのハワード・アサニーアムで上演される。
     5月23日 アンナとジョン・ブリッジ・プラットが、オーチャード・ハウスで結婚式を挙げる。
     8月 コンコードで初めての小説『ムーズ』を書き始める。

     1861年(29歳)夏 コンコードで『ムーズ』と『サクセス』を執筆する。
     4月12日 南北戦争開戦(〜1865年4月9日)。

     1862年(30歳) ボストンで幼稚園の先生をする。
     5月6日 ソローが死去。
     11月 従軍看護婦に志願する。
     12月 ワシントン郊外のジョージタウンにあるユニオン・ホテル病院で看護婦として働く(〜6週間)。

     1863年(31歳)1月1日  リンカーン大統領が、奴隷解放宣言を発効する。
     1月 病院でチフスに感染して帰宅する。間もなく回復したが、元の健康体には戻れなかった。 
     3月28日 アンナの長男フレデリック(フレッド)・オルコット・プラット誕生。
     病院から家族に送った手紙を元にした「病院のスケッチ」が≪コモンウェルス≫紙に連載され、世間の注目を集める。
     8月 手紙を再構成した『病院のスケッチ』(Hospital Sketches)をレッドパス社から出版して好評を博し、
     作家としての地位を得る。

     1864年(32歳)5月19日 ホーソンがニューハンプシャー州プリマスで死去、享年59歳。
     『ムーズ』と『サクセス』を書き続ける。
     おとぎ話集『ローズ・ファミリー』(The Rose Family: A Fairy Tale)を出版する。

     1865年(33歳) 自伝的な恋愛小説『ムーズ(不機嫌集)』(Moods)を出版する。
     6月24日 アンナの次男ジョン・スーウェル・プラット誕生。
     7月19日 病身の娘アンナ・ウェルドの付き添いとしてヨーロッパ旅行に出かける(〜1866年7月19日)。
     11月 ヴェヴェーでポーランドの青年ラディスラス・ウスニースキーに出会う。『若草物語』のローリーのモデルとなる。

     1866年(34歳)4月 ニースで女優アデライデ・リストーリの舞台を見る。
     6月 イギリスの劇場でチャールズ・ディケンズが自作を朗読するのを聞く。
     7月19日 ヨーロッパ旅行から帰国する。
     知り合いの雑誌編集者ジェームズ・エリオットから手紙で、12回に渡って彼の雑誌に連載するための物語
     を書いて欲しいと依頼される。ヨーロッパを舞台にした『愛の果ての物語』を書き上げ、彼に送るが、
     長い事とセンセーショナルすぎる事が原因で採用されなかったので、戻ってきた原稿を修正する。

     1867年(35歳) 子供雑誌≪メリーズ・ミュージアム≫(Merry's Museum)の編集者となり(〜1870年)、
     ボストンのヘィウォード広場6番地で編集の仕事をする。
     ボストンの出版社ロバーツ・ブラザーズ社のトマス・ナイルズより「少女向けの物語」の執筆依頼を受ける。

     1868年(36歳) トマス・ナイルズより、再び「少女向けの物語」の執筆依頼を受ける。
     5月 コンコードで『若草物語』の執筆を始める。
     6月 『若草物語』初めの十二章を書く。
     7月 『若草物語』残り全部を書き終える。
     10月 自伝的な小説『若草物語』第1部(Little Women)をメイ挿絵でロバーツ・ブラザーズ社から出版するとベストセラーとなり、
     世界各国語に翻訳されて名声を得、父の借金も返済できた。
     出版社から読者の要望に応えて第2部を書いてほしいと依頼される。
     11月1日 『若草物語』第2部の執筆を始める。

     1869年(37歳) メイ『コンコード・スケッチ』(Concord Sketches)を出版する。
     5月 『若草物語』第2部(Little Women Married or Good Wives)を出版する。 
     『若草物語』の第1部と第2部が合本になり、1冊の本として『若草物語』(Little Women or Meg, Jo, Beth and Amy)が出版され、
     ルイザに富と名声をもたらした。
      ルイザメイ、ボストンのピンクニー通り14番地に引っ越す。

     1870年(38歳) 『昔気質の一少女』の執筆を始める。
     3月 ≪メリーズ・ミュージアム≫誌に連載した『昔気質の一少女』七章(An Old Fashioned Girl)を出版すると、
     続編を求める手紙が殺到する。
     4月2日 メイに美術の勉強をさせる事と自分の健康回復とを兼ねて、親しい友達と3人でヨーロッパ旅行に出かける。 
     11月27日 ジョン・プラットが死去、享年37歳。
     ローマで『第三若草物語』を執筆する。

     1871年(39歳) 『昔気質の一少女』の続編(十二章)を出版する。
     6月6日 帰国する。『若草物語』の続編『第三若草物語』(Little Men: Life at Plumfield with Jo's Boys)が出版される。
     アンナの息子フレデリックとジョンに献ささげられている。
     メイも帰国する。

     1872年(40歳) 短編集<ジョーおばさんのお話かご>(Aunt Jo's Scrap-Bag 全6巻66編)の第一巻『わが君たち』(My Boys)と
     第ニ巻『ショールのひも』(Shawl-Straps)を出版する。

     1873年(41歳) メイ、再びロンドンへ行く。
     小説『サクセス』(Success)を書き終え、『ワーク』(Work: A Story of Experience)と改題して、≪クリスチャン・ユニオン≫誌に半年間連載した後、
     ソロモン・アイティンジの挿絵で出版する。 

     1874年(42歳) 短編集<ジョーおばさんのお話かご>の第三巻『Cupid and Chow-Chow』を出版する。
     メイ、一時帰国する。
     アンナアンナの二児が、ルイザと共にボストンに住む。
     12月 『八人のいとこ』を書き終える。

     1875年(43歳) 『八人のいとこ』(Eight Cousins or The Aunt-Hill)を出版する。
     ニューヨーク州シラキュースで開かれる女性会議に出席する。

     1876年(44歳) 短編集『銀の水さし』(Silver Pitchers)を出版する。
      コンコードで『花ざかりのローズ』を執筆する。
     9月9日 メイ、3回目で最後のヨーロッパ旅行に行く。
     11月 『八人のいとこ』の続編『花ざかりのローズ』(Rose in Bloom)を出版する。

     1877年(45歳)9月 匿名の小説『現代のメフィストフェレス』(A Modern Mephistopheles)を出版する。 
     『ライラックの花の下』を書き始める。
     11月 ルイザアンナはソローの家を購入し、新しい家(ソロー・オルコットの家)に引っ越す。
     11月25日 最愛のがコンコードで死去、享年77歳。スリーピイ・ホロウ墓地に埋葬される。
     12月 「ライラックの花の下」を≪セント・ニコラス≫誌上に発表する(〜1878年10月)。

     1878年(46歳) 短編集<ジョーおばさんのお話かご>の第四巻『My Girls, Etc.』を出版する。
     3月22日 メイ、15歳年下のスイス人の銀行家エルネスト・ニーリッカとロンドンで結婚する。 
     『ライラックの花の下』(Under the Lilacs)を出版する。

     1879年(47歳) 短編集<ジョーおばさんのお話かご>の第五巻『Jimmy's Cruise in the Pinafore, Etc.』を出版する。
     が、後援者からの寄付によって、オーチャード・ハウスの敷地内に建てられた哲学学校を開校する。この学校は、
     アメリカにおける成人教育のはしりだった。
     『ジャックとジル』を書き始める。
     11月8日 メイの娘ルイザ・メイ・ニーリッカ(愛称ルル)誕生。
     12月29日 メイがパリで死去、享年39歳。モンルージュ墓地に埋葬される。

     1880年(48歳) 『ジャックとジル』(Jack and Jill: A Village Story)を出版する。 
     3月29日 コンコードの学校委員の投票で、初めて投票をする。
     9月 ルル、アメリカのボストンに来て、ルイザ達と暮らす。

     1881年(49歳) 短編のみ執筆。

     1882年(50歳) 短編集<ジョーおばさんのお話かご>の第六巻『An Old-Fashioned Thanksgiving, Etc.』と
     『ことわざ物語』(Proverb Stories)を出版する。
     『第四若草物語』を書き始める。
     4月27日午後9時 エマソンが死去。コンコードのスリーピイ・ホロウ墓地に埋葬される。
     10月 、卒中の発作を起こす。

     1883年(51歳) 『第四若草物語』を執筆する。
      マサチューセッツ州の南海岸にあるノンクイットへ行く。

     1884年(52歳) 短編集12編『紡ぎ車の物語』(Spinning-Wheel Stories)を出版する。
     オーチャード・ハウスを売り、ノンクイットに小さい家を購入する。

     1885年(53歳)夏 ノンクイットの家で暮らす。
     10月 父の介護をするためにボストンのルイスバーグ・スクエア10番地のタウン・ハウスを借りて、
     アンナ一家やルルと共に引っ越す。

     1886年(54歳) 短編集<ルルのお話集>(Lulu's Library 全3巻32編)の第一巻『A Christmas Dream』を出版する。
     『第四若草物語』(Jo's Boys and How They Turned Out)を出版し、大好評を博す。 
      マサチューセッツ州の中央部にあるプリンストンで過ごす。

     1887年(55歳) ロックスベリーの療養所に入る。
     <ルルのお話集>の第ニ巻『The Frost King』を出版する。
     アンナの次男ジョン・プラットを養子に迎える。
      マサチューセッツの中央部にあるプリンストンで過ごす。

     1888年2月8日 アンナの長男フレデリック・オルコット・プラットとジェシカ・ケイトが結婚する。
     3月4日 が死去、享年88歳。コンコードのスリーピイ・ホロウ墓地に埋葬される。
     3月6日 ルイザがマサチューセッツ州ボストンで死去、享年55歳。スリーピイ・ホロウ墓地に埋葬される。

     1889年 短編集<ルルのお話集>の第三巻『Recollections』が出版される。
     アンナ、ルルを父の元へ連れていくためにヨーロッパへ渡る。
     エドナ・ダウ・チェニイの『ルイザ・メイ・オルコットの生涯、手紙、日記』(Louisa May Alcott: Her Life, Letters and Journals)が出版される。

     1893年 戯曲『喜悲劇』(Comic Tragedies)が出版される。
     7月17日 アンナが死去、享年62歳。

     1910年 ルイザの甥フレッド・プラットが死去、享年47歳。

     1923年 ルイザの養子ジョン・プラット・オルコットが死去、享年58歳。

     1933年 アメリカの白黒映画「若草物語」(ジョージ・キューカー監督)が公開される。

     1933年 コーネリア・メイグズの『不屈のルイザ―ルイザ・メイ・オルコットの伝記』(Invincible Louisa : 
     The Story of the Author of Little Women)が出版され、1934年度のニューベリー児童文学賞を受賞する。

     1949年 アメリカ映画「若草物語」(マーヴィン・ルロイ監督)が公開される。

     1970年 イギリスのTVM「若草物語」(パディ・ラッセル監督)が放送される。

     1975年 ルイザの姪ルル・メイ・ニーリッカ・ラジムが死去、享年96歳。
     マドレーン・スターン編の『仮面の裏―ルイザ・メイ・オルコットの知られざるスリラー小説』(Behind a Mask : 
     The Unknown Thrillers of Louisa May Alcott)が出版される。

     1976年 マドレーン・スターン編の『策略には策略で―ルイザ・メイ・オルコットの知られざるスリラー小説第2集』
     (Plots and Counterplots: More Unknown Thrillers of Louisa May Alcott)が出版される。

     1977年 マーサ・サクストンの『ルイザ・メイ・オルコット伝』(Louisa May Alcott: A Modern Biography of Louisa May Alcott)が出版される。

     1978年 アメリカのTVM「若草物語」(デヴィッド・ローウェル・リッチ監督)が放送される。

     1980年5月3日 日本のTVアニメ「若草物語」(芹川有吾 監督)が放送される。

     1987年1月11日 日本のTVアニメ・シリーズ「愛の若草物語」(黒川文男 監督)が放送される(〜12月27日)。

     1988年 マドレーン・スターン編の『二重生活―新たに発見されたルイザ・メイ・オルコットのスリラー小説』
     (A Double Life: Newly Discovered Thrillers of Louisa May Alcott)が出版される。

     1991年 『奇人変人―ルイザ・メイ・オルコットの知られざるスリラー小説』(Freaks of Genius: Unknown Thrillers of Louisa May Alcott)が
     出版される。

     1993年 ケント・ビックネルが、未刊の小説『愛の果ての物語』の手書き原稿が売り出されている事を知る。
     1月17日 日本のTVアニメ・シリーズ「若草物語 ナンとジョー先生」(楠葉宏三 監督)が放送される(〜12月19日)。

     1994年 ケント・ビックネルが、経済的な援助を受けて『愛の果ての物語』を買い取る。
     アメリカ映画「若草物語」(ジリアン・アームストロング監督)が公開される。

     1995年 ケント・ビックネルが校訂した『愛の果ての物語』(A Long Fatal Love Chase)が出版される。

     1997年 カナダ映画「若草物語〜ジョー先生と子供たち〜」(ロドニー・ギボンズ監督)が公開される。

     1999年 短編集『みじかい3つのクリスマス物語』(The Quiet Little Woman)が出版される。

     2004年 短編集10『The Brownie and the Princess』が出版される。

     2019年 アメリカ映画「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」(グレタ・ガーウィグ監督)が公開される。

     アメリカの児童文学作家。少女向けの家庭小説を数多く残した。
     ゴシック風スリラー小説は主に、A・M・バーナードなどの筆名で雑誌などに掲載された。「ポーリンの激情」
     「戸棚の骸骨」「暗闇の囁き」など。

     参考図書:『昔気質の一少女』吉田勝江 訳 角川書店
          『愛の果ての物語』広津倫子 訳 徳間書店
          『「若草物語」への旅』井上一馬 著 晶文社
          『若草物語―ルイザ・メイ・オルコットの世界』ウィリアム・T・アンダーソン 著 
                                谷口由美子 訳 求龍堂
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