年譜

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
   父方の祖先は十字軍時代にまで遡る旧家。フランス中部リムーザン地方の出身で、有名な将校達が大勢いた。

   母方の祖先には大司教一人、宮廷侍従一人、有名音楽家数人、騎士多数がいた。
   の実家ボワイエ・ド・フォンコロンブ家は、男爵だった祖父がエクス=アン=プロヴァンスの出身、祖母が
   ロマネ・ド・レトランジュ家というフランス南東部ヴィヴァレ(現アルデシュ県)出身である。
   作曲家の娘であり孫娘でもあった母マリー・ボワイエ・ド・フォンコロンブは音楽が好きで、パステル画の才能もあり、
   生涯絵を描き続けた。

   1863年 父方の祖父フェルナン・ド・サン=テグジュペリ伯爵アリックス・ブルキエ・ド・トレラン(トゥール市出身)と結婚。

   父方の祖父が副知事を務めていた四つの県の内の一つフロラックで、父ジャン・ド・サン=テグジュペリが生まれる。
   サン=テグジュペリ一家九人はル・マンに引っ越し、祖父は保険会社に就職する。
   は士官学校に入学したが、卒業できなかった。

   1896年 がソレイユ保険会社の調査員としてリヨン市に赴任する。
   がリヨン市ベルクール広場にある母方の大叔母ド・トリコー伯爵夫人のアパルトマンで、遠縁で12歳年下のと出会う。
   6月8日 がリヨン市から約60キロ北東にある母方の大叔母の所有地サン=モーリス=ド=レマンスの城館で結婚する。
   リヨン市ペラ通り(現アルフォンス・フォシエ通り)八番地のアパルトマンに住む(〜1904年)。

   1897年1月 長女マリー=マドレーヌが生まれる。体が弱かった。

   1898年1月26日 次女シモーヌが生まれる。サン=テグジュペリ家を継ぐ事になる。

   1900年6月29日朝 アントワーヌが五人きょうだいの長男として生まれる。
   6月30日 アントワーヌ・ジャン=バティスト・マリー・ロジェ・ド・サン=テグジュペリと名付けられる。
   の家系から快活さと豊かな魅力を、の家系から音楽や芸術や精神的な物への眼識と感受性とを受け継ぐ。

   1902年(2歳) 次男フランソワが生まれる。音楽と絵画の才能があった。

   1903年(3歳) 三女ガブリエルが生まれる。アントワーヌと一番仲が良かった。

   1904年(4歳)3月14日夕方 が脳卒中で死去。サン=トロペに近いの実家ラ・モールの城館で葬儀が行われる。
   復活祭前 半年をサン=モーリス=ド=レマンスの城館、残りの半年は大叔母のアパルトマンか、ラ・モールの城館で過ごす(〜幼年時代)。
   は、話して聞かせたお話を劇や影絵にしてみるよう子供達に勧める。

   1906年(6歳) アントワーヌシモーヌは、伯父の書斎で見つけた物語を基にして短い戯曲を作り、いとこ達と芝居を
   上演して大人達の喝采を浴びる。これに気をよくして、夜、を書いては聞き手を求めて家の中を歩き回るようになる。

   毎週、ピアノを習い、合唱団を作る。
   リヨン市のカトリック系の学校モン=サン=バルテレミーで勉強する(一〜ニ年)。

   1909年(9歳)晩夏 家族と共にル・マン市クロ・マルゴー通り二十一番地のアパルトマンに引っ越す。
   10月 子供達五人は、の母校でイエズス会経営の聖十字学院(ノートルダム=ド=サント=クロワ)に入学し、
   アントワーヌは第七学年に入れられる。との文通が始まる。

   1910年(10歳) 算数で落第点をとる。

   1912年(12歳)7月末 サン=モーリス=ド=レマンスの城館から6キロ離れたアンベリューの飛行場で、初めて
   飛行機(ベルトー=ウロブレウスキー機)に乗る。
   空飛ぶ自転車を作るが、飛び上がらなかった。

   1913年(13歳) 仲間を集めて同人誌を作る。最初のページ詩の欄を担当するが、居残りを命じられて第一号だけで終わる。

   1914年(14歳) 作文の時間に書いた「ある帽子のオデュッセイア」が、校内の最優秀作文賞に選ばれる。
   7月28日 第一次世界大戦が勃発する(〜1918年11月11日)。
   10月 と共にリヨン市にあるイエズス会経営のノートルダム=ド=モングレ学院に転校する。
   叙事詩を作り、イラストを添える。逆さ文字で文章を書く方法を独習する。
   は一学期の終わりに兄弟の希望に添って退学させ、ニ人はル・マンに戻る。

   1915年(15歳) 修辞法でクラスの一番になる。
   11月 スイスのフリブールにあるマリア修道会経営の聖ヨハネ学院に寄宿生として編入する。
   フランス語やラテン語で時々好成績をとる以外、成績は悪かったが、詩の暗記力は優れ、演技への情熱も強かった。
   バルザック、ボードレール、ドストエフスキー等を読み、詩作寸劇の脚本執筆を始める。

   1916年(16歳)6月 ソルボンヌで大学入学資格試験の第一部を文系科目、第二部は哲学で、一年後はリヨンで受験し、合格する。
    ヴァイオリンを練習する

   1917年(17歳)初め 弟フランソワが病に倒れ、聖ヨハネ学院を退学する。
   6月10日 フランソワアントワーヌに全財産を残し、心臓リューマチの悪化のために死去、享年15歳。サン=モーリス
   の敷地内の一族の墓地に葬られる。
   7月末 姉妹を残して転地する。ル・マンで祖父母に会う。
   8月末 クルーズにあるボヌヴィ家の館に滞在する(〜約一か月)。
   の間に、兵学校志望が決まる。のまたいとこイヴォンヌ・ド・レトランジュ公爵夫人に会う。
   10月 海軍兵学校受験準備のためパリへ行き、サン=ルイ校の準備学級に入学し、ボシュエ校の寮生となる。
   デッサン表彰される。

   1918年(18歳)夏 東部のブザンソンのヴィダル将軍夫妻の家に滞在し、海軍兵学校受験のため猛勉強する。
   入試に失敗したら、前線に志願しようと考えていると、将軍が志願兵は自分で隊を選べると教えてくれたので、
   飛行部隊に志願しようと思う。

   1919年(19歳)1月 サン=ルイ校を退学して、ボシュエ校に転校する。
   海軍兵学校の入試に落ちる。
   8月 郵便航空路線会社ラテコエールが創立する。
    ニ度目の海軍兵学校受験準備のためサン=ルイ校に戻る。
   に経済的に依存し、自立していなかったアントワーヌの金銭面でのだなしらさはこの時期に始まる。

   1920年(20歳)4月 大叔母ド・トリコー伯爵夫人が死去。サン=モーリスの館と敷地をに、多額の金を姉マリーに遺す。
   6月第3週 再び海軍兵学校を受験する。筆記試験に合格するが、口頭試問で不合格になる。
    気落ちして腹痛に悩み、ヴィシーで三週間の療養生活を送る。
    パリに戻り、ボナパルト通りにある美術学校建築科の聴講生になる。

   1921年(21歳)4月 ニ年間の義務兵役に就き、航空隊を志願する。
   4月9日 ストラスブール南のノイヨフにある第二航空連隊に入隊する(兵舎でトランプ手品を覚える)。
   一兵卒として、地上要員に任命される。
   飛行についての最初の散文となる手紙(戦闘機スパッド=エルブモンに初めて乗った時の事)をに書く。
   6月18日 民間飛行免許があれば、訓練飛行士として認められるので、自由時間に東部空輸株式会社(CTE)の
   常勤操縦士ロベール・アエビから操縦訓練の講習を受ける。
   7月9日11時10分 イギリス製のソッピース機に乗り、初めて単独飛行し、講習を終えて民間飛行免許を取得する。
   7月下旬 モロッコのラバトにある第37飛行連隊に転属する。ブレゲー14型機で訓練する。
   11月 予備役将校の試験を受ける。

   1922年(22歳)1月 予備役将校訓練の試験に受かり、フランスのイストル空軍基地に転属する。
   1月31日 軍用機操縦免許を取得する。
   4月頃 フランス中部のブールジュに近いアヴォール飛行場に赴任する。
   添乗偵察員の免許取得のための講義を受ける。
   8月 陸上戦訓練のため、ヴェルサイユに移動する(〜10月初旬)。
   夏の終わり頃 社交界の花形ルイーズ・ド・ヴィルモランに恋するが、彼女の実家に反対される。
    ルイーズと婚約する。
   10月10日 ル・ブールジェの第34飛行連隊に配属する。

   1923年(23歳)5月1日火曜日朝 リショー少尉と共にアンリオHD14型機に乗ってル・ブールジェ飛行場を飛び立つが、
   墜落してしまい、重傷を負う。ニ週間の飛行禁止を申し渡される。
   ルイーズから飛行機の操縦を止めるように言われ、彼女の意志に従う事にする。
   6月5日 軍隊を除隊する。
    療養のためヴィシーの診療所に通う。
   8月末 スイスのルコンヴィリエ町でルイーズと再会する。
    ヴィルモラン家の友人シャルル・ダニエル=ヴァンサンの紹介でフォーブル=サン=トノレ通り五十六番地の
   ボワロン・タイル会社に入社し、製造管理の簿記となる(〜1924年秋)。月給800フラン。
   10月初旬 ガブリエルがピエール・ジロー・ダゲーと結婚する。
   ルイーズと別れる。

   1924年(24歳)夏 パリで第8回オリンピックが開催される。
    シュレーヌにあるソーレ貨物自動車会社に転職し、トラックのセールスマンとなる(〜1926年冬)。

   1925年(25歳) 短編「踊り子マノン」を執筆するが、未完に終わった(一部は『南方郵便機』の中に挿入)。
   イヴォンヌ・ド・レトランジュ邸のサロンで文芸誌≪銀の船≫の編集者ジャン・プレヴォー、ガストン・ガリマール、
   アンドレ・ジッド、ジャン・シュランベルジェ、ラモン・フェルナンデスと出会う。ジッドは彼をいち早く認める。
   晩冬 『ジャック・ベルニスの脱出』(後に大幅に手を加えられて『南方郵便機』となる)の一部である「飛行士」を書き終える。

   1926年(26歳)4月 短編「飛行士」が≪銀の船≫誌四月号に掲載される。
    の知人エドゥアール・バレス将軍の紹介で、アエリエンヌ・フランセーズ社(CAF)に遊覧飛行のパイロット
   として臨時採用される。
   6月第一週 姉マリー=マドレーヌが結核で死去。
   6月23日 航空輸送資格という旅客輸送許可のライセンスを受ける。
   10月14日 ボシュエ校の恩師シュドゥール神父の紹介で、トゥールーズにあるラテコエール航空会社に入社。
   後にジャン・メルモーズやアンリ・ギヨメなどと共にフランス民間航空の開拓者の一人として、不朽の名を留める。
   郊外のモントードラン飛行場で整備士として働いた後、飛行訓練を積み、飛行士になる。
   11月末か12月初旬 トゥールーズ=バルセロナ=アリカンテ線間を双葉機ブレゲ―14型機で飛び、最初の郵便物を運ぶ。

   1927年(27歳) ラテコエール社が買収され、アエロポスタル社に社名変更する。
   2月7日 カサブランカ=ダカール線の定期郵便飛行を担当するため、初めてアフリカへ行くが、リゲルが操縦していた
   ブレゲー機が故障して、サハラ砂漠に墜落する。
   2月8日晩 幻想的な一夜を過ごす。
   2月24日 カサブランカ=ダカール線の定期郵便飛行に従事する。
    重いデング熱にかかり、ダカールの病院に三週間入院し、南仏コート・ダジュールのアゲーにある妹夫妻の家で静養する。
   10月初め フランスで療養中だったが、トゥールーズに呼び出され、スペイン領リオ・デ・オロ北部西サハラの
   キャップ・ジュビー(現モロッコのタルファヤ町)へ飛行場主任として派遣される。
   10月19日 キャップ・ジュビーに到着する(〜13か月)。ここの生活で逆境に鍛えられ、連帯意識を見出したは
   作品の支えとなる思想を培い、全作品に影響を与える事になる。
   キャップ・ジュビー滞在の間、サン=テックスという綽名がつき、少なくとも十四人の飛行士を救出し、「路線」の仲間達の
   間で伝説のパイロットになる。かなり読書をする。
   12月24日 キャップ・ジュビーの飛行場での体験を基に『南方郵便機』を書き始める(〜約一年間)。

   1928年(28歳)春頃 家族や慈善団体から寄付を募って、ムーア人からバルクを買い取って奴隷の身分から解放する。
   後に、『人間の大地』の中でバルクの事を書く。
    フランスに帰国する。

   1929年(29歳)初め ルイーズ・ド・ヴィルモランの家でB夫人と出会う。
   『南方郵便機』の原稿をガリマール社に送る。
   2月20日 ガリマール社と契約書を交わす。
   4月 パリの陸軍士官学校で少し準備した後、ブレストで海軍兵学校の天測航行法の選抜講習を受講する。
   5月 『南方郵便機』の一部が≪新フランス評論(N・R・F)≫誌に掲載される。
   7月 自伝的な処女小説『南方郵便機』(Courrier Sud)をガリマール社から出版する。批評は好意的だった。
   8月 トゥールーズ=カサブランカ路線の仕事に付く。
   10月12日 アルゼンチン、ブエノス・アイレスにアエロポスタル社の現地法人、アエロポスタ・アルヘンティーナの
   開発部支配人として転勤し、郵便路線を開拓する(〜1930年末)。
   10月24日 営業主任に任命され、家への送金を始める。

   1930年代〜 手紙や原稿、本の献辞を記したページの余白、数式の間、レストランのテーブルクロスなどに子供の絵を描く。

   1930年(30歳) シモーヌが古文書学者としてインドシナへ行く(〜20年以上)。
   『夜間飛行』の執筆を開始する。
   3月末 新品のラテコエール28型機の着陸に失敗する。
   6月13日 アンデス山脈に不時着した同僚ギヨメの捜索を始める。
   6月20日 ギヨメ発見の知らせを受ける。
    脚本「イゴール」を書く。
   初秋 アルゼンチンで未亡人コンスエロ・スンシンと出会う。

   1931年(31歳)2月半ば フランスに帰国する。
    コンスエロと婚約する。
   3月 南仏やニースのシミエにあるコンスエロの別荘で過ごす。『夜間飛行』を推敲する。
   3月末 アエロポスタル社が破産し、人員削減、業務中断、路線廃止され、国が任命した役員会によって臨時に経営される。
   3月31日 アゲーでコンスエロを家族やイヴォンヌ・ド・レトランジェ公爵夫人に紹介する。
   ジッド『夜間飛行』の原稿を見せると、序文の執筆を引き受けてくれた。
   4月初旬 キャップ・ジュピーでの業績が認められて、レジオン・ドヌール勲章を授与される。
   4月12日 コンスエロとの結婚式が、アゲーの礼拝堂でシュドゥール神父により執り行われる。
   4月22日 ニースの市役所に婚姻届を出す。
    カサブランカ=ポール=テティエンヌ線の飛行に従事する事になり、カサブランカで暮らす。
   10月 『夜間飛行』(Vol de Nuit)をパリでガリマール社から出版する。ディディエ・ドーラに捧げた。
   批評は好意的だった。一年後にフランスの殆どの高校や大学で推薦図書に指定される。
   12月 『夜間飛行』がフランスでフェミナ賞を受賞する。

   1932年(32歳) 米の出版元であるカーティス・ヒッチコックと初めて会う。
   2月中旬 マルセイユ=アルジェ路線で働く。水上飛行機の訓練を受ける。
   『夜間飛行』が職業の大原則を破ったと厳しく非難され、会社に休職願いを出す。
   7月 マルセイユを去る。サン=モーリス=ド=レマンスの城館がリヨン市に売却され、青少年の夏の家となる。
   8月 コンスエロと共に再びモロッコに赴任する。アフリカ路線に配属され、カサブランカ=ダカール間郵便飛行士の
   操縦士となる。
    コンスエロがニースで自動車事故を起こす。
   10月26日 連載エッセイ「路線の操縦士たち」をガリマール社の≪マリアンヌ≫誌に発表するが、皆はこの作品に
   政治的意図を読み取り、再び職を失う。
    カサブランカを去る。

   1933年(33歳)初め トゥールーズで営業していたラテコエール飛行機製造会社にテストパイロットとして入社する。
   8月 アエロポスタル社は、フランスの他の4つの航空会社と共に、国が四分の一を有する臨時会社(後のエール・フランス社)
   に統合される。
   10月 アメリカの白黒映画「夜間飛行」(クラレンス・ブラウン監督)が公開される。
   12月21日 サン=ラファエル湾でラテコエール293型機のテスト飛行中に水没事故を起こし、同僚達に救出される。
   解雇され、飛行士としての職を失う。

   1934年(34歳) コンスエロが再び自動車事故を起こす。
   4月末 エール・フランス社宣伝部に入社する。
   7月半ば インドシナのサイゴン>へ一か月の調査旅行に出かける。
   7月19日 サイゴンに到着する。午後からアンコールのカンボジア寺院を見に出かけるが、エンジンが停止し、
   メコン川で不時着事故を起こす。
   11月 地中海東部でニ週間の講演旅行をする。

   1935年(35歳) 革表紙のノートを胸ポケットに入れて歩くようになる。死後に『手帖』として出版される。
   完成した脚本「アンヌ=マリー」を、レイモン・ベルナール監督に売る。
   4月29日 ≪パリ=ソワール≫紙の特派員としてモスクワへ取材に行く。
   6月 レオン・ウェルトと知り合う。コンスエロと別居する。
   初夏 モスクワの記事が絶賛を浴び、パリに帰国すると報道記者として引っ張りだこになる
   11月 ジャン=マリー・コンティ、アンドレ・プレヴォーと共にコードロン=シムーン機で地中海東部に講演旅行に出かける。
   12月29日日曜日午前7時1分 パリ=サイゴン間の飛行記録に挑戦するため、ル・ブールジェ飛行場から
   機関士アンドレ・プレヴォーと共にシムーン機に乗って出発する。
   12月30日午前2時45分 リビア砂漠に不時着する。

   1936年(36歳) フランスの白黒映画「南方飛行」(ピエール・ビヨン監督)が公開される。
   1月2日 ベドウィンの遊牧民に救われて奇跡的に生還し、祝電が殺到する。後に、この体験を「砂の牢獄」や
   『人間の大地』に書く。
   1月21日 家族と記者達が迎えるマルセイユに到着する。祝賀レセプションが開かれ、フランスの英雄となる。
   1月30日〜2月4日 今度の墜落事故と生還を描いた手記「砂の牢獄」が≪ラントランジジャン≫紙に6回に渡って
   連載されると、一大センセーションを巻き起こす。
   5月下旬〜6月初旬 ドイツとルーマニアに短期旅行する。
   7月 南大西洋横断100回を記念してアエロポスタル社の創成期を称える記録映画「南大西洋」(主にアントワーヌが
   監督をした)が上映される。
   8月10日 ≪ラントランジャン≫紙の依頼でスペイン特派員となり、スペイン市民戦争取材のため、カタロニア戦線へ行く。
   8月12日 バルセロナとレリダの戦地についての5回の連載記事の第1回分が発表される。
   10月 ジャンソンがアレクサンダー・コルダと企画した航空史をテーマにした連作映画「空の征服」の製作に誘われ、
   打ち合わせのためジャンソンと共にロンドンへ行く。
   コルダは2人を脚本の草案を書き上げたH・G・ウェルズに紹介する。
   映画「南方飛行」の撮影に立ち会うため、モロッコ沿岸のモガドール(現エッサウィラ)に行く。ラテコエール機
   の離着陸のシーンを殆ど操縦してスタントを演じる。
   12月7日 「右後部エンジン停止」と言う連絡の後、メルモーズの通信が途絶え、消息を絶つ。

   1937年(37歳)1月 ル・ブールジェ飛行場からアンドレ・プレヴォーと共に離陸し、マルセイユとカサブランカを
   経由した、新ルート開拓飛行が成功する。
   4月第1週 ギヨメのアンデス遭難についての文章(後に『人間の大地』に収められる最終稿とほぼ同じ)が
   ≪ラントランジャン≫紙に掲載される。
   4月11日 ≪パリ=ソワール≫紙の依頼で特派員として、再びスペインへ取材に行く。
   スペイン市民戦争を取材する。
   4月末 パリに戻る。
   6月27日 ≪パリ=ソワール≫紙でスペイン取材記事の連載が始まる。
   7月半ば B夫人と共にシムーン機でドイツへ数日間の旅行に出かける。
   年末 3度目の長距離耐久飛行(レード)の準備に入る

   1938年(38歳)1月第1週 アンドレ・プレヴォーと共にシムーン機に乗り、親善使節としてニューヨークへ向かう。
   1月11日 ニューヨークに到着し、レイナル&ヒッチコック社を創設したユージーン・レイナルと
   カーティス・ヒッチコックに会って契約する。
   2月15日火曜日朝 シムーン機に乗り、ニューヨーク飛行場から離陸する。
   2月16日1時30分頃 親善使節旅行の途中、グアテマラ市のラ・アウローラ空港で離陸に失敗し、アンドレ・プレヴォー
   と共に重傷を負う。
   グアテマラ市の病院で一か月以上にも及ぶ療養生活を送るが、多くの後遺症に悩む事になる。
   3月5日 コンスエロが到着し、2〜3日看病した後、エル・サルバドルの家族に会いに行く。
   3月18日 退院して、エル・サルバドルに滞在する。
   3月28日 ニューヨークに到着する。B夫人に一か月看病してもらう。
   ルイス・ガランティエールに紹介され、『人間の大地』を英語に翻訳してもらう。
   5月上旬 豪華客船ノルマンディー号でフランスに帰国し、アゲー、スイスで療養する。
   11月 雑誌の記事として書いた物を繋ぎ合せて、手を入れた記事を≪パリ=ソワール≫紙に掲載すると
   大反響を呼ぶ。後に『人間の大地』に入れられた。

   1939年(39歳)1月 レジオン・ドヌール勲章受勲を授与される。
   3月3日 『人間の大地』(Terre des Hommes)をガリマール社から出版し、絶賛を浴びる。ギヨメに捧げた。
   『人間の大地』の英語版『風と砂と星と』がレイナル&ヒッチコック社から出版されベストセラーになる。
   復活祭頃 ウェルト家と共にソーヌ河畔にあるフルーヴィル村の宿屋へ行き、素晴らしい午後を過ごす。
   5月25日土曜日 『人間の大地』アカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞する。
    ジロドゥーの依頼で「汎ゲルマン主義とその宣伝」と題する文章を書く。
   ニューヨークでリンドバーグ夫妻に会う。
   9月3日 フランス帰国直後、第二次世界大戦が勃発する(〜1945年9月2日)。
   9月9日 予備空軍大尉として召集され、後方基地の教官としてトゥールーズ=モントードラン基地に配属される。
   10月 ロンドンで『人間の大地』の英語版『風と砂と星と』が出版される。
   10月半ば 「汎ゲルマン主義とその宣伝」をラジオで読み上げる。
   12月3日午後 後方基地の教官から長距離偵察飛行を任務とする33―2飛行部隊に転属し、シャンパーニュ地方
   オルコント村に着任する。

   1940年(40歳)2月 『風と砂と星と』がアメリカン・ブックセラーズ協会から全米図書賞ノンフィクション部門
   最優秀作品を受賞する。
   5月23日 ジャン・デュテルトル偵察大尉と共にオルリーから出撃し、アラスへの上空偵察飛行の途中、
   ドイツ軍に発砲され被弾する。後に、この体験を『戦う操縦士』に書く。
   6月上旬 前線での活躍により、戦功十字勲章を受勲する。
   7月31日 アルジェで除隊になる。
   フランス、ドイツに降伏する。動員解除後、渡米のために働く。
   11月5日 出版社の招待を受け、北アフリカ経由でアメリカに亡命する。
   11月27日 アメリカへの渡航途中、輸送飛行中のギヨメが行方不明になった知らせを聞く。
   12月31日 ニューヨークに到着する(〜1943年4月)。

   1941年(41歳) 『戦う操縦士』を執筆する。
   同じ出版社だったレイナル&ヒッチコック社を介してパメラ・L・トラヴァースと知り合う。
   10月 知人の紹介で画家ヘッダ・スターンと知り合う。
   12月8日 真珠湾攻撃。

   1942年(42歳)1月 コンスエロがニューヨークに到着する。
   2月20日 ニューヨークで英語版『アラスへの飛行』(Flight to Arras)と同時に、フランス語版『戦う操縦士』
   (Pilote de Guerre)をベルナール・ラモットの挿絵でラ・メゾン・フランセーズ社から出版し、絶賛を浴びる。
   偵察飛行集団所属33―2飛行部隊の戦友たちに捧げた。
   3月 ガランティエールの知人シルヴィア・ラインハルトと出会う。
   4月 カナダの出版社からの招待でモントリオールへ行く。
   夏〜秋 『星の王子さま』の文章と挿絵を書く。
   10月半ば 『星の王子さま』の自筆原稿が完成する。
   11月 フランスで『戦う操縦士』をガリマール社から出版する。
   11月8日 連合軍が北アフリカに上陸を開始する。
   11月29日 ニューヨークのラジオを通じ、フランス人の和解と団結を訴える。「あらゆる場所におけるフランス人
   への公開状」の英訳が≪ニューヨーク・タイムズ・マガジン≫誌に掲載される。
   12月 『戦う操縦士』がフランスで発禁処分になる。

   1943年(43歳) 「ある人質への手紙」がカナダの雑誌に掲載される。
   北アフリカで再編された原隊に復帰するための渡航許可を得る。
   4月6日 北米大陸で童話『星の王子さま』(Le Petit Prince)の英語版とフランス語版がアントワーヌ挿絵
   で出版される。レオン・ウェルトに捧げたこの作品は、110以上の言語に訳されて世界的ベストセラーとなる。
   ≪ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン≫紙の書評欄トップで『星の王子さま』をあたたかく取り上げた
   トラヴァーズは「おとぎ話という物はどれも前兆である」と書く。
   4月13日正午過ぎ ニューヨークから汽船スターリング・キャッスル号に乗船する。
   4月末 オランダ経由で仏領アルジェに到着する。
   5月1日 元の33―2飛行部隊への再入隊が正式に決まる。
   6月 ニューヨークで『ある人質への手紙』(Lettre a un otage)を出版する。レオン・ウェルトに捧げた。
   6月4日 正式にロッキードP38(ライトニング)機の偵察パイロットとして33-2部隊に配属される。
   7月 ラ・マルサ基地からフランス本土への偵察飛行に出撃する。
   8月1日 着陸に失敗し、機体破損を理由にアメリカ連合軍から飛行を禁止される。
   8月8日 アルジェに戻り、ダンフェール=ロシュロー通り十七番地のペリシエのアパルトマンに滞在する(〜8か月)。
   12月 リヨンで『戦う操縦士』が地下出版される。

   1944年(44歳)2月1日 アルジェの≪ラルシュ≫誌に「ある人質への手紙」が掲載される。
   2月末 アルジェで≪ライフ≫誌のフォトジャーナリストだったジョン・フィリップスと出会う。
   サルディニア島ヴィラシドロ基地の22―1部隊にB26中型爆撃機の副操縦師として配属される。
   5月6日 元の33―2部隊派遣が裁可され、ジョン・フィリップスを伴ってイタリアのサルディニア島アルゲーロ基地に赴任する。
   5月24日 P38で1時間の訓練飛行に出る。
   5月29日晩 「あるアメリカ人への手紙」を書く。
   6月6日 連合軍が北フランス海岸ノルマンディーに上陸を開始する。
   6月29日 フランスへ偵察飛行に出て、再びアヌシーやシャンベリー方面に向かったが、フランス上空で
   左エンジンが故障したので、停止する。コルシカ島東岸ボルゴで一夜を過ごす。アントワーヌの不注意で敵の
   基地の上をカメラが作動したまま飛行したため、独軍施設の写真を多数入手できた。
   7月17日 部隊はフランスのコルシカ島のボルゴ基地に移動する。 
   7月31日月曜日8時45分 南仏グルノーブル・アヌシー方面の偵察飛行のためボルゴ基地からロッキードP38
   ライトニング機で出撃したまま、消息を絶つ。
   8月25日 パリが解放される。
   12月4日 ガリマール社から『ある人質への手紙』が出版される。

   1945年4月 アメリカで「あるアメリカ人への手紙」が俳優シャルル・ボワイエの朗読でラジオ放送される。
   フランス東部コルマールでミサが行われる。

   1946年 コンスエロが、アントワーヌと星の王子さまの彫刻を作る。
   フランスで『星の王子さま』(Le Petit Prince)がガリマール社から出版される。

   1948年3月1日 ガリマール社から『城砦』(Citadelle)が出版されるが、評判は悪かった。
   4月 祖国のために死んだと正式に認められる。

   1949年 B夫人が、ピエール・シュヴリエという男性名のペンネームでアントワーヌの伝記を出版する。

   1952年 『城砦』の英語版『砂漠の叡智』がイギリスで出版されるが、評判は悪かった。

   1965年 パリのパンテオンに記念プレートが飾られる。

   1972年 が死去、享年97歳。

   1974年 イギリスのミュージカル映画「星の王子さま」(スタンリー・ドーネン監督)が公開される。

   1975年 ヴォーバン広場の建物にプレートが飾られる。

   1978年7月4日 TVアニメ・シリーズ「星の王子さま プチ☆プランス」(神田武幸 チーフディレクター)が放送される(〜1979年3月27日)。

   1979年 コンスエロが南仏グラースで死去。

   1983年 フランス映画「星の王子さま」(ジャン=ルイ・ギェルマン監督)が公開される。

   1987年 ソ連の天文学者達が、ある小惑星にサン=テグジュペリの名前をつける。

   1993年 50フラン紙幣のデザインにアントワーヌの肖像と『星の王子さま』挿絵が採用される。

   1994年 ステイシー・シフが四年に渡る取材に基づいて書いた伝記『サン=テグジュペリの生涯』(SAINT-EXUPERY,A Biography)を出版する。
   ピューリッツア賞伝記部門の最終候補となる。フランス貴族協会とフランス飛行クラブの文学賞を受賞する。
   フランス・ドイツ・オーストリア・スイス合作の映画「サン=テグジュペリ/星空への帰還」(ロベール・アンリコ監督)が公開される。

   1995年 イギリス映画「星の王子さまを探して/サン=テグジュペリ〜魂の軌跡」(アナンド・タッカー監督)と
   アメリカ・フランス合作の映画「愛と勇気の翼」(ジャン=ジャック・アノー監督)が公開される。

   2015年 フランスのCGアニメ映画「リトルプリンス/星の王子さまと私」(マーク・オズボーン監督)が公開される。

   参考図書:『サン=テグジュペリの生涯』ステイシー・シフ 著 檜垣嗣子 訳 新潮社
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